読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画「あん」

アパートの部屋を出、屋上に煙草を吸う気怠そうな中年男。ぶっきらぼうなオープニングである。まったく意味がなく、無関係に見える映像の連続が、あとで全て意味のある事に気づかされる、そういう仕掛けになっている。

彼は千太郎という。刑務所を出所後どら焼屋「どら春」店長に。生地はそこそこ焼けるが、餡は業務用。味自慢というわけじゃない。雇われ店長で借金もある。客は主に学校帰りの女子校生。千太郎は彼女らにからかわれながら、旨くもないどら焼を焼いているのである。その中に訳あり母子家庭の子若菜ちゃん。彼女に牛乳を注いでやる千太郎。高校へ行きたいが、学費を出し渋るシングルマザーの母。食事も満足に作らない。何しろ夕食はもっぱら千太郎の出来そこないのどら焼なのだ。若菜ちゃんはどら春でのバイトを希望。素直な優しい子で、他の子とは違い彼も接しやすい。若菜ちゃんはカナリアを飼っている。アパート住まいなので鳴き声がうるさい、近所迷惑と言われて肩身の狭い思いをしている。

桜が満開だった。徳江さんが来た。吉井徳江。いきなり名乗るのだ。私、ここで働けないかしら。時給300円でいいの。でも76歳で高齢だし、手がうまく動かない。で、お断りした。徳江さんはこれどうぞと何かの包みを置いて行ってしまった。中身を見た。粒餡だ。何のつもりだろう。捨てかけたがやめた。味見くらいしてもいいか。すると、美味しい。こんな餡、一朝一夕で作れる代物じゃない。あの人、ひょっとして名人じゃないのか。

その晩蕎麦を食いに行った。若菜ちゃんがいた。蕎麦が出来るのを待ちながら、徳江さんの話をした。そんなに働きたがっているんだから、雇ってあげたらいいじゃないですか。あとで聞けば餡作り50年の職人だという。徳江さん、よければ店、手伝ってもらえませんか。千太郎は一から教わることにした。

いつも寝坊というわけでもないが、彼も夜明け前に起きた。そして始発のバスがあるのでもなかろうに徳江さんはもう来ていた。餡作りはまず豆の顔を見ることから。豆はやさしく水洗い。渋味が残らないように。炊いているうちに匂いが変わってくる。少し蒸らす。豆へのおもてなしよ。せっかく畑から来てくれたんだもの。炊き上がったら流水で静かに煮汁をこぼし灰汁を切る。豆は割れやすいの。徳江さんは豆に見入っている。綺麗な小豆。ここで砂糖を入れ、水を加え、しばらく馴染ませる。そうね、お見合いみたいなものよ。火にかける。少しずつ煮詰まってゆく小豆。焦げやすいから、へらを鍋底につけ、立てながらゆっくりと掻き回す。豆が潰れないように静かに。そして水飴を一抱え足す。水飴が馴染み、餡にとろみがついたらバットにあける。餡が出来た。生地を焼く。味見。俺、こんなの初めてです。徳江さんの餡は忽ち評判になり、行列が出来るようになった。餡への愛か、仕込み中徳江さんは言う。頑張って。誰に言うわけじゃない。煮えてゆく豆に囁くのだ。

ある日オーナーが来た。徳江さんは癩患者じゃないの? 悪い噂が広まったらどうするの。辞めてもらいなさい。何故です。行列が出来るようになったのは彼女のお蔭じゃないですか。千太郎は激怒して仕事を休んだ。何も知らぬ徳江さんは店を開け、今日も餡を仕込んでいたら客が来た。どら焼ください。彼女は焼いたこともない。やってみたがうまく焼けない。でも客足は絶えない。翌日彼は驚いた。休業なのに店は開いている。そうだ。あんなに働きたがっているし、あんなに人間が好きな徳江さんなのだ。オーナーが何と言おうと構うものか。餡係だが徳江さんには存分に働いてもらおう。接客から何からやってもらおう。以来徳江さんはフルタイム。女子校生の話を聞きながら、顔をほころばす徳江さん。

ある日常連の若菜ちゃんは徳江さんの秘密に気づいてしまう。徳江さん、その手どうされたんですか。あのね、夏風邪が治らなくて。ごまかすが結局ばれてしまう。ハンセン病の強制隔離の歴史。図書室に写真集があった。何も悪いことをしていないのに、世の中って何て酷いんだろう。あんなに繁昌していたのに、季節が変わる頃には千太郎の店は客がさっぱり来なくなった。徳江さんには辞めてもらう破目に。悔しい。けれどどうしようもない。

徳江さんは隔離施設にいた。若菜ちゃんと遊びに行き、徳江さんの作った善哉を御馳走になった。凄く美味しかった。味の秘密は笑って教えてくれなかった。見る影もなくやつれた印象の徳江さんだった。彼女は言う。店長さん有難う。あの頃は楽しかったです。

オーナーが来て今度甥を事実上店長にし、お好み焼中心の店にするという。こんな横暴に意見も言えず、改装中酒浸りになる千太郎。心配して若菜ちゃんが来た。徳江さんに逢いに行きません? だが彼女は施設にはいなかった。肺炎で呆気なく逝ってしまったのだ。徳江さんの遺した声。彼女は自分が産めなかった我が子のように、彼を思っていてくれたこともわかった。店長さん、罪に苦しんでいる貴方を私は救いたかったのです。私たちには生きる意味があるの。ハンセン病患者には墓がない。木を植え墓の代わりにするのだ。桜の木になった徳江さん。以来桜の木の下でどら焼を売る千太郎だった。どら焼、いかがですか。

主演の樹木希林。天才的である。手垢の付いていない真っ新な演技で勝負している。類型的な演技では全くない。こんなことを言っては何だが、清らかで純粋で天使のようにかわいかった。ヴェテランはとかく演技の引き出しで勝負したがるが、そんなものをかなぐり捨てた潔さを彼女に感じた。名優を本気にさせてしまうと恐ろしい。その具体例を見た気がした。